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25年前の地震の後に買ったカセットコンロ発見。ボンベもまだ使えます。

たまには味噌汁も作りますが、ボンベ節約のためインスタント味噌汁にする方が多いです。

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いろんな人に「食べるものは足りてる?」と言われますが、戦中世代の母は、備蓄だけは怠りません。
充分過ぎるほどの保存食やインスタント、冷凍食品がありました。

この日のメニューはちらし寿司とスープです。

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雪の八幡神社

仙台に来るときは先を考えず、ほとんど着の身着のままで来ましたが、さて東京に戻るのがひと苦労です。

母がこのマンションで一人で暮らすのは当面無理でしょう。歩くのもやっとの状態の83歳の母を連れていくのですから、交通手段も選びたいところですが、ガソリンの不足や毎日変わるバスや電車の状況とにらめっこしつつ、東京から情報を送ってもらっていました。

私が来た新潟回りの逆ルートを考えましたが、仙台→新潟のバスは3月末まで満席です。
その内、仙台→東京へのバスも走り始めましたが、おそらく予約でいっぱいでしょう。
母が何時間も長距離バスに揺られるのはかなり厳しいと思いましたが、他に脱出の手段がなければそうするしかありません。
そうこうしている内に、仙台→池袋の路線バスが走るかもという情報をもらい、24日に空席があったので予約してもらいました。しかし本当に運行するのか疑心暗鬼でした。
このバスの予約会社に何度も何度も電話して、やっとつながり状況を聞くと「運行に向けて最大限努力している」という答えです。これでは安心できません。

その頃、タクシーはだいぶ動き始めているのがわかりました。タクシーはガソリンではなく、ガスで走るので打撃が少なかったようです。

病院の帰りに乗ったタクシーの運転手に、長距離だとどこまで行けるか訊ねたら、盛岡あたりまでは行ける、ということでした。満タンにして行って帰って来れるところならどこへでも行ってくれそうです。盛岡より近い山形なら当然圏内でしょう。

そこで、最初は諦めていた山形ルートを東京のパソコンで検索してもらいました。山形→東京の飛行機が増便していて、24日に空きがあったのです!
深夜まで何度も連絡を取り合って、無事、席が確保できました。
この時ほど、「助かった〜!」と思ったことはありません。今まで何度か、海外も含めて旅行に行きましたが、帰る手段や日程がわからない、ということはなかったのです。
当初は19日頃帰ろうと思っていたのが、八方塞がりで、ずいぶん先になってしまいました。

ただ、幸か不幸か、縁起物であるチンドン屋や演奏の仕事は4月頭まですべてキャンセルになり、時間はたっぷりあるにはありました。

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これ飲んでがんばってこう〜。

落ち着いたかに見えた母の様子でしたが、腰の痛みを訴え、布団から一人で起き上がれないほどでした。

今まであちこち故障はありましたが、腰は悪くはなかったのです。ただの腰痛とは思えず、やはりかかりつけの整形外科に連れていこうと思いました。

車がないのでタクシーを呼ぶしかありません。診察をしているのか、タクシーが来てくれるのか、携帯からは通じず、一台だけある公衆電話 に行くと、故障中の張り紙が。

どうすべか〜、と管理センターに相談に行くと、親切な人が自宅の電話が光回線で通じやすいから使っていいよと言ってくれました。

光回線は確かに強く、病院もタクシーも通じました。タクシーはあと10分後に来るというのです。
お礼もそこそこに、あわてて家に戻り母に支度をさせていると、もうタクシーが来てしまいました。
この日も雪でした。寒い中整形外科に行くと、節電のためエアコンを止めた院内も寒く、看護婦さんたちも厚着した上に白衣を着ていました。

母は診察を受け、レントゲンを撮られました。地震の時に転んだのか、背骨を圧迫骨折している可能性があるということでした。私が来た夜にしりもちをついたことを思い出しました。

コルセットと痛み止をもらい外に出ると、目の前に八幡神社がありました。
子どもの時にどんと祭に行った神社の鳥居は地震でもびくともせず立っていました。

まだ東京に戻る手段も決まっておらず、これからどうなるだろうと不安でした。
町では意外にもタクシーがたくさん走っていました。
毎日めまぐるしく状況が変わっていきます。

高速バスで新潟から仙台へは、普段は高速道路で4時間ほどかかります。

今は山形内の高速道路が使えないため、国道13号などを通って行きます。仙台から新潟は7時間もかかったと車掌さんが言っていました。

途中は雪国の山道を通ります。関川、小国、南陽、高畠、上山といった地名が出てくるあたりは、道の両側にはまだ1m以上の雪が積もっていました。

当初は国道48号で仙台に入る予定でしたが、渋滞などで予定変更、笹谷峠、秋保温泉を通る国道286のルートになりました。こちらは渋滞はありませんでした。

西道路から見なれた仙台市内に入ってくると、ああ着いたんだな〜、と実感がわきました。無事に着けてホッとしました。
新潟を3時ごろ出発して、仙台に着いたのは8時過ぎ。覚悟していたより遥かに早く着きました。

バスが着く東口から市営バスに乗り換えるには、駅の中を通って行きますが、仙台駅も被害にあっていて、すべての階段が上れないようになっていました。コンクリートの壁の一部が剥離して落ちている箇所もあり、駅の回りをぐるっと回って行きました。
後日、仙台駅の被害も大きいと聞きました。

駅周辺では、ビルのタイルが落ち、コンビニのガラスが割れて段ボールが張られており、営業はしていません。
街は暗く、人影もまばらでした。

地震で大きな被害を受けたのは主に沿岸部の地域ですが、仙台駅周辺でも地震の大きさがわかりました。
高速バスの車掌さんの話では、前日支援に行った岩切で、新幹線の高架を支える柱が完全に斜めに倒れていたということした。

しかし、海に近い矢本の支援に行った時は、現状は本当に酷い、何もかも泥にまみれてしまった、言葉を失ったと話してくれました。

母が住む地域は幸いなことに大きな被害はなく、家具が倒れたり、ものが落下したりということはほとんどありませんでした。

揺れは相当大きかったと思いますが、長い横揺れだったので倒れなかったのではと、近所の人が言っていました。

それでもガスの復旧は見通しが立たず、電気が通じたのも地震の2日後でした。
電話も市内は通じず、ガソリンも無く、母を病院に連れて行きたくてもその手段がなくて、途方にくれていました。

さらに母の世話で手が空かず、近所に助けを求める時間もなかなかありません。
そんな時、民政委員の娘さんや、赤十字の協力員のおばちゃんが次々に様子を見に来てくれて、まさに渡りに舟、事情を話して助けてもらうことにしました。

しばらくすると、おばちゃんが戻ってきて、母のかかりつけの医院に連絡がとれて、診察してくれるので一緒に行ってくれることになりました。
車は民政委員の娘さんが出してくれると言うのです。
ガソリンがもう半分しか残っていないというのに、申し訳なかったのですが、一刻も早く母を病院に連れて行きたかったので、好意に甘えることにしました。

放射能が混じっているかもしれない雪の中、S医院に着きました。大学病院と違い、患者は少なく、わりとすぐに視てもらうことができました。
長年の付き合いの院長先生の顔を見ると母もほっとした表情になり、先生の「元気だったあ〜?」の呼び掛けに「元気じゃない〜」と本音を訴えていました。

熱もあったため、医師は脱水症状を疑い、点滴を打つことになりました。
その約二時間の間、民政委員の娘さんは給油所を探しに行き、おばちゃんは街の様子を見に行きました。

点滴を受けて、母の顔色がよくなったように思えました。傍らの私と話しているうちに、母の脳内で何かがつながったようで、私のことも認識し、孫であるプーやアケの話もしました。幻覚は一時的なことだったのです。地震のショックと極度の不安、脱水、栄養不足、それにもしかすると低体温症になりかかっていたのかもしれません。ともかく、パニックから生還したのです。

もうひとつ別の病院でも視てもらう予定がありましたが、運転手は一時間待ちでガソリンスタンドに並んでいたため、院長の奥さんが車を出してくれることになりました。
待合室でまっていると、奥さんが「昨日お会いしましたね」と言って出てきました。その人はなんと、新潟のバスターミナルで話しかけた、ディズニーシーで地震にあった人だったのです!
こんなことってあるでしょうか?本当に驚きです。


出発するときには院長先生自ら母に靴を履かせてくれて、看護婦さんたちに大受でした。

もうひとつの病院でも治療を受け、給油を終えた民政委員の娘さんにまた送ってもらって帰り着きました。
お昼が食べられず、お腹ペコペコでしたが、たくさんの人に助けられてその日できることをやりとげました。


母の状態はだいぶ落ち着きました。

11時台の新幹線に乗ってから、母の住むマンションに着いたのは9時過ぎでした。
合鍵でドアを開けて入ると、電気もテレビもつけたままで、母が倒れるようにして寝ていました。

呼んでも反応が無く痙攣しているようです。あわてて隣のOさんに知らせて少し様子を見ましたが、深く眠っているのだろうと、救急車を呼ぶことはしませんでした。

本当に疲れ果てていたのだと思います。しばらくすると母はトイレに起き、私に気づきましたが、私が誰なのかわかっていませんでした。
それからほとんどひっきりなしにトイレに行き、私は荷物もそのままに母の世話をしました。母は一度足がもつれて尻餅をついてしまいましたが、その時は特に痛い様子はありませんでした。

翌朝も私が自分の娘ということがわからず、地震の記憶もなく、「戦争は終わったの?」とか子どもの頃住んでいた家の話をしていました。

地震で本当に恐ろしい経験をし、停電で寒く心細い夜を過ごして、もう限界までがんばっていたんだなと思ったら涙が出てきました。

そんな私に母は、知らない人が泣いて困ったなぁ、という感じでした。

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その朝は、子どもたちとどれぐらいの間離れるかと思うと悲しくなりました。
プーはあわただしく学校へ行き、アケはお守りを作ってくれました。

そういえば、前日のパーティーの時、乾杯の音頭をまかせたら、「しまないように、がんばろう!」と言ってたっけ。

後をお父ちゃんに任せて、緊張して旅立ちました。

新潟行きの上越新幹線は平日にも関わらず、混んでいました。新潟駅では、さらに上りの新幹線を待つ人が列を作っていました。いち早く被災地から脱出した人たちなのでしょう。
高速バスは万代シティバスセンターというところから出ます。仙台行きにはたくさんの人が待っていました。
小さな女の子のいる家族が隣にいたので話しかけました。
ディズニーシーにいたときに地震に合い、その夜はディズニーシー内のレストランの床にビニールシートをしいて寝たそうです。これから自宅のある仙台に帰るということでした。
バスの乗客は皆被災地に自宅のある人なのでしょう。どうにか無事にたどり着きたい思いは一緒で、不思議な一体感がありました。

座席に着いて落ち着くと、デジカメで撮った写真を見てみました。
雪の日のチンドンの写真や卒園式の写真…すべてが遠く、いとおしく思えました。


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