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突然だが、最近野口五郎の曲が気になる。野口五郎といえば「新御三家」と呼ばれた一人だが、私が小学生の頃は、郷ひろみと西城秀樹の人気が高く(年バレルね)、野口五郎はやや地味な存在だった気がする。
最近、改めて野口五郎の曲を聴くと、いい!「私鉄沿線」の哀愁、「オレンジの雨」のロックテイスト、「青いリンゴ」の突き抜けた感じ、「甘い生活」のせつなさ…どの曲をとってもこれぞ歌謡曲〜!
先日、テレビ東京の歌謡番組に野口五郎が出演していた。彼は自宅に本格的な録音スタジオを持っていて、そっくりさん歌手を呼んでカバーCDを作るというかなり変態な趣味を披露していたが、その時流れたのは井上陽水と美川憲一(のそっくりさん)で「青春アミーゴ」だった。あまりにもはまりすぎていて、むしろ意外な感じがしないくらいだった。
それ以来、どうも野口五郎が気になっているのである。

tutti

所沢にて、ママさんブラスバンド"Tutti”を聴いた。なかなかの演奏であった。子供向けの曲や、ドラマの主題曲など親しみやすい曲が多かったが、ダイエーの前でアンコールにライオンズの旗たててライオンズのテーマをやるのには、こっちがはらはらしてしまった。もう球団持ってないからいいのか?

かねてから、ママさんコーラスや、ママさんバレーはどこにでもあるのに、何故ママさんブラスバンドはないのだろう?と思っていたが、調べるとこれが、想像よりはるかに数多く存在するのであった。私の住んでいる地区には今のところないので、いつか立ち上げたいと思っているのだが、どうもすでに計画している人がいるらしい。

今日のメンバーの中には、赤ちゃんを背負って演奏している人が数人いて、そういえば私もプーをおんぶして仕事に出たっけなあー、とちょっと懐かしかった。

20060923_232056.jpg
ある町の異色なパチスロ店。機種名は黒板に手書き。



昨日の夕焼けすごかった。夕飯の支度していたが、外が紫色になっているのに気がついて、おとうと君を抱っこして、しばしの間見とれていた。コウモリがやけに飛んでいた。

sake1

しばらく重たい話題が続いたので、ここらでちょっとひとやすみ。
栃木の酒で「鳳凰美田」というおいしい酒があるのだが、そのシリーズで「桃色発泡」というのを飲んでみた。

sake2

なぜ「発泡」しているかというと、微生物の力によってなので、開けるときには細心の注意をはらう。

sake3

少しずつ栓を開けては締め、を繰り返しても、底から泡が「それいけ〜」とどんどん沸き上がってくる。ぷしゅぷしゅぷしゅー。

sake4

はやる気持ちを抑えつつ、最後はもうどうでもよくなって、ボールにこぼれた泡たちも
あとで飲むことにして、いよいよグラスに注ぐ。
ひとくち飲むと、それはファンタスティックな桃色の味がした。




「すわ、介護生活か!?」と思われた同居生活も終わることとなり、私は母と共に数回目の仙台行きを果たした。母は、ヘルパーさんや、ケアマネージャー、お弁当の配達サービス、民生委員、近所の友人や知り合いの支援を受けながら、また一人の生活に戻っていった。私がこれからできることは、電話やメール、そして実際行くことで刺激を与えること。そして、少しでも母自身の楽しみを見つけられるように働きかけることだ。
本当は、母が夢中になるものがあって、自分の娘も孫もそっちのけぐらいであって欲しいが、それはありえないだろう。でも、私はそうなりたいし、そうならなくちゃいけないと思う。それには、私が心から面白がれることを見つけて行くことだ。
この一連の出来事があった数週間、仙台への数回の往復、母の滞在、仕事、子供の学校や保育園の行事があり、自分ひとりの時間というものがほとんどなかったに等しい。次から次へと用事をこなすだけで、楽器を吹く時間がほんとになかった。
とにかく、無性に楽器が吹きたかった。

(すわ、介護生活?編はほぼ終わります。次回は、新シリーズが始まる…のか?)

母が東京にいる間は、孫たちと遊び、私とケンカしながらも楽しい日々だったろう。外食や、デパートでの買い物も久しぶりで、バカンス気分だったに違いない。
私たちと一緒に暮らしたいという気持ちがないわけではないが、どこかで、それは難しいとも思っているようだ。夏休みを前に、私は母を仙台に連れて帰ることにし、長いようで短かった同居生活も終わることとなった。
認知症かと思われた症状も全くなく、思ったよりもずっと元気だったが、介護認定はひと月遅れで出るので、「要介護1」という認定になった。
母は2ヶ月ほどの間に、ショートステイやデイサービスも経験し、もっと年をとった時のことを考えるきっかけになっただろうし、私は私で、介護生活の疑似体験をすることができた。今回は、たまたまこれくらいで済んだが、これから母はますます老いて行くわけだし、いつどうなるかわからない。そのための覚悟ができたかというと、いささか心もとないが、この経験を通して、身にしみて感じたことがある。
それは、今の母は、私の数十年後の姿かもしれないということである。このことは、否応なしに今の私自身の人生を見つめ直させる。

母は昭和3年生まれである。亡くなった渥美清も同じ年に生まれたそうだ。しかし、秋吉敏子が母と同い年と知ったときは、衝撃だった。
母は、ずっと父の庇護の元で生きてきた。父が死んだ後でさえも、経済的にはそうだ。その年代の多くの女性はきっと、母と同じように生きてきただろう。母は、父のために、私のために生きてきたのであって、自分自身のためには生きてこなかった。ひとりで暮らしていても生きるための目的がないのだ。おしゃれだったのに、おしゃれしなくなった。料理も、すごく上手というわけではなかったが、「せっかく食べるならおいしい方がいい」と言って、おいしい料理を毎日作っていたのに、今は作るのが億劫になってしまった。
今日、何を作って食べようか、どの器に盛りつけようか、今日の味付けはいまいちだったから、次はああしようこうしようと、料理ひとつ作るにも、随分脳を使うと思うのだが、もう使い方を忘れてしまったようだ。私が仙台に行っても、母がこちらに来ても、献立を決め、作るのは私で、母は私の指示がないと、自分からは動かない。
私が、仕事の日、夕飯を作っておいて欲しいと頼むと、何を作っていいかわからない、自信がないというので、カレーならできるのではないかと材料を用意しておいた。私より早く帰ってきたプーが母の助手となり、二人で力を合わせてカレーを作った。箱に書いてあるレシピ通りの分量で作ったカレーは、なかなか素朴な味がして、それはそれでおいしかった。

MRIの画像CDを持って、再び近所のクリニックへ行く。
CDをコンピュータにセットすると、すべての方向から脳を見ることができる。すごいものだ。
母の脳は、出血や、血管の詰まりもなくきれいなもので、やや萎縮が見られるが、それは年相応のものであるということだった。ただ、強いて言えば、萎縮が前頭葉に多く見られるのが気になると言えば気になる、という。前頭葉は記憶に大きく関わると同時に、意欲もつかさどっている場所なのだそうだ。うつ傾向も、なんとなくやる気が出ないのも、それが原因かもしれないとすると腑に落ちる。
脳が萎縮するのは、老化だからしかたがないとしても、そのスピードを和らげるにはどうしたらいいか?それは、年だからとあきらめないで、新しいことを覚えようとしたり、家にばかりこもらずに、外で人とおしゃべりしたり、と言われた。要するに脳に刺激を与え続けることなのだ。
しかし、いろいろなことが面倒になっている人が、新しいことにチャレンジするのはなかなか難しいことだろう。それができれば苦労はしない。

  • 2006.09.07 Thursday
私が仕事に行く日は、母が一人で過ごすのは不安だというので、親戚のヨーコちゃんに来てもらうことにした。ヨーコちゃんは、母と映画でも見に行こうかと思っていて、その頃上映していた、「ダヴィンチ・コード」はどうかという話になったが、母は、怖いのではないかと、あまり気がすすまない様子だった。
ヨーコちゃんが来る日までは、まだ数日あり、とりあえず本を買って読んでみることにした。MRIを撮りに、病院へ行ったとき、待合いの椅子で私が読み始めると、どんどんと読めた。普段私は、ベストセラーというものに関心がないので、それを読んでいる自分がなんだかおかしかった。
MRIはすさまじい音がするらしく、それを和らげるつもりなのか、部屋ではクラシックが流れていたと母はあきれていた。あまりの爆音に頭痛がしてきたと言っていた。
母が読むつもりで買った「ダヴィンチ・コード」だったが、結局私の方が読みすすみ、ヨーコちゃんが来た日も二人は映画には出かけなかった。

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