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最近は、認知症の人を対象とした、「物忘れ外来」というのがあって、母が来る前に「東京都老人医療センター」に予約していたのだが、ケアマネージャーのOさんが、物忘れ外来のあるクリニックを紹介してくれた。それは、意外にも家から歩いて15分ほどの、時々行く商店街の中にあった。東京都…の方はキャンセルして、そちらのクリニックにみてもらうことにした。もう、その時点では、ほとんど認知症とは言えなかったのだが、こうなった原因を知りたいのと、今後の予防のためということもあった。
クリニックでは、これまでの経緯をよく聞いてもらい、簡単な知能テスト(野菜の名前を10個あげて下さい、というような)と、内科的な検診などをした。母は、混乱していたときの記憶が抜け落ちているので、その部分は私が代わりに説明した。
医師の話では、一時的に認知症のような症状になったのは、おそらく抗うつ剤の副作用だろうということだったが、もうひとつは、脳に血栓などができて、一時的に血流が悪くなった可能性も考えられるという。いずれにしても脳のMRIを撮りに、もう少し大きな病院に行かなければならなっかた。早速、予約を入れてもらい、数日後、MRIを撮りに行くことにした。
病院や、買い物など、毎日のように外出して、疲れないだろうかと思ったが、母は、久しぶりの東京や、私との外食がとても嬉しいようだった。
何事にも消極的な母の性格だと、一人でランチを食べに行ったり、洋服を買いに行ったりというのはまずありえないのだ。十数年間の一人暮らしは、孤独で、そして圧倒的に刺激が少ないのだった。

母としゃべっているうちに、もう大丈夫なのではないか、という気がしてきた。2度目のショートステイの途中から、意識が戻ってきた感じは、電話でも伝わってきていたのだが、会ってみるまでは確信できなかった。それでもまだ、実際に生活を始めてみないとわからないこともある。
東京のアパートに着いてからは、久しぶりに会う孫たちにパワーをもらっているようだった。(同時に吸い取られてもいるのだが)私は母に、片づけにこだわるような、異常な行動がないか観察していたが、今はどう見ても普通の母だった。精神面では、とても落ち着いていて、むしろ、転んだ時に打った胸が痛むのがつらそうだった。

約1週間ぶりで会った母は、顔色も良く、安定しているように見えた。施設での規則正しい生活と、毎日、他人と出会う緊張感が幸いしたのかもしれない。以前の混乱した母の様子はみられなかった。
仙台駅で、プーへのおみやげと、自分たちのお弁当を買って、新幹線に乗り込むと、母は久しぶりの「旅行」に少し、ウキウキしているようにも見えた。ショートステイから、いきなりの大移動で、母にはきついかもしれないと思った私の予想は見事にはずれたのだった。

東京の暑い夏を過ごすかもしれないので。もう1台エアコンを買ったり、東京でのケアマネージャーを探して事情を話し、どのようなサポートを受けられるか聞いたり、短い期間でできることをやっているうちに、行く日になってしまった。
私は仕事が終わるとその足で新幹線に乗り、仙台の母のマンションに泊まり、次の朝、施設の人が母を送ってきてくれる手はずになっていた。
私は、がらんとした、ひとりで暮らすにはやや大きすぎる部屋で、深夜、サッカーのワールドカップを見ていた。

翌日は、子供たちを友人の家でみてもらうことになっていたが、さすがに前日の熱のため、友人に来てもらうことになった。しかし、おとうと君はすっかり平熱で、元気に遊び回っていたという。
ほっと一安心で、私も東京へ戻る準備を始めた。介護認定の結果が出るまで、一ヶ月かかる。おそらく、要介護1ぐらいではないかという周囲の人の予想だが、2度目のショートステイが終わったらどうするか、というのが目下の問題だった。母は、とにかく私の一番いいようにするのがいい、どういう考えでも、それに従うと話した。
再び、ショートステイの荷物をまとめて、タクシーで母を施設まで送っていった。
私は東京へ向かう新幹線の中で、今の母がひとりで暮らすのはどう考えても無理だと思っていた。

週末は父親が仕事のため、子供たちはお隣さんでみてもらうことになっていた。プーと同い年の仲良しの女の子がいて、かなり気心の知れたありがたい隣人なのである。
土曜日の午後に、私の携帯にそのお隣さんから電話がかかってきて、「母親の勘」でおとうと君の熱をはかったら、40度あるという。救急にいったほうがいいだろうか、ということだった。話によると、午前中は平熱で食欲もあり、元気だったという。応急処置として豆腐パスタをしてくれたので、ここは病院に行かず様子を見てもらうことにした。鍵を預けていたので、プーにホメオパシーのレメディーを取ってきてもらい、高熱のレメディーを何度か飲ませてもらうことにした。熱はなかなか下がらなかったが、元気はあるようだった。
夕方、父親が帰ってきたので、さらにレメディーをやってもらう。電話口でもハアハアいうのが聞こえる。最初ベラドーナをくりかえしやったが変化がないので、ストロンモニウムに変えてもらった途端に汗をかきはじめて、息の荒いのも落ち着いたという。夜中には平熱に戻ってしまった。
ホメオパシーはヒットするとすごい。

母のマンションに戻ると、母は休むことなく「片づけ」を始めていた。しかし、よく見るとひとつの場所から違う場所へと移動させているだけで、どんどんぐちゃぐちゃになっていくのだった。わりときれい好きで、年をとっても片づけられていた部屋が、どことなく雑然としていた理由がわかった気がした。
この「片づけ」は、不安を埋めるための行動のように思えたので、ほうっておくことにしたが、例えば、スリッパの片方ずつが3種類ビニールに入れられて口をしばられていたり、時計が書類や、ちり紙と一緒に紙袋に入っていたりとかなり不可解だった。段ごとに分類されていたタンスの引き出しの中身も、徐々に入り交じっていった。この目の前の混乱が、まさに今の母の混乱なのだと思った。

その週の週末に、私は再び仙台へ。ショートステイ先から、一旦母を自宅に連れていって一緒に過ごし、その後もう一度ショートステイへ、という予定だった。
施設は明るく、清潔で、職員も感じが良かった。母は思ったよりも元気そうで、私が子供を連れてこなかったのを残念がっていた。しかし、普段は内気な母が、若い職員と楽しそうにおしゃべりしたり、からかっているのを見ると、人格まで変わっているような気がして不思議だった。
職員によると、初日はだいぶ混乱して、持ってきたものを部屋中に散らかしたりしていたが、次の日からは落ち着いているという。それでも、人の名前を間違ったりとか、今の状況を把握できていないとか、やはり別の世界の人になっていた。
介護認定の調査員が部屋に来て、あれこれ質問するのだが、今日の日付や季節がわからなかった。

地域包括センターのSさんから電話があり、母が夜中に転んで、腕と顎を切りだいぶ出血したのだという。一人暮らしで一番怖いのは、転倒だ。Sさんは、母がふらつきもあり、また転倒して骨折でもしたら、それこそ寝たきりになってしまう事を心配して、すぐにでもショートステイに入ることを勧めた。すぐに手配してもらうようにお願いして、母にも電話をすると、「寝てる間にお行儀が悪くてねえ」と、転んだときのことは覚えていないようだった。ショートステイの事を説明すると、そういうことなら仕方ないという感じだった。
たまたま割と近くの施設に空きがあり、Hさんに持ち物などを用意してもらって数日間ショートステイに入ることになった。

どうするか。というのが、せっぱ詰まった問題として急にやってきたわけだ。
介護関係の本を借りて読んだりもしたが、すぐに結論は出ない。母を引き取る、家族で仙台に行く、施設を探す、それも東京か、仙台か、などなど。いくつかの選択肢のうち、心の中では消去法でだんだんと絞られていくのだろう。
母へは、毎日電話をかけたが、朝かけると、9時頃なのにまだ寝ていることがあった。睡眠薬のせいか本当にぼんやりしていた。相変わらず、自分の家ではないと思っていた。しかし、ヘルパーさんに来てもらって、何とか食事と薬はとれているようだった。
そうやって、1週間もたった頃か、事が起きてしまった。


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