一定期間更新がないため広告を表示しています

  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

問題の薬を処方された精神科にも母と保健婦さんと一緒に行った。待合室で母はひたすらボーっとしていて、だいぶ疲れているようだった。そういえば、前日、銀行に行くために二人で出かけたのだが、銀行に行っただけでもう疲れてしまった。それでも母はどうしてもアイスクリームが食べたいと言い、ようやく小さなパフェを食べさせる店を見つけたのだった。買い物をする元気は残っておらず、家に直行だった。
精神科では、私と保健婦さんだけが診察室に入り、母はひとり待合室で待たされる形になった。無理して連れてこなくても良かったようなものだ。
女医さんは薬が少し合わなかったかもしれないといい、幻覚をもたらした薬はやめて、「眠りの質をよくするために」弱い睡眠薬に変えている、と説明した。そして、「認知症が始まっていたのだろう」と言った。
これは、私にはとても意外だった。薬を飲む前の母は、それなりに物忘れはあるけれど、ぼけているわけではなかった。薬を飲んだことで急激に変化したとしか考えられない。
私は、もともと薬には不信感があるので、何の薬か、どういう副作用があるのかを知らなければ、飲みたくないし、人にも飲ませたくない。精神科からもらった薬の説明書がなかったので、自然な気持ちで「説明書を下さい」というと「みんな、説明書、説明書というけど…(見てなにがわかるの?)」といわんばかりに渋るので、どうも目の前にいる女医さんを信頼できない気がした。医者にしてみれば、あげた薬をきちんと飲んでもらわないことには始まらないのだろうが、やはりその前にインフォーム(説明)とコンセント(合意)は必要ではないだろうか。
家に帰ってから、母がずっとつけていた日記をなにげなく読んだ。簡単なものだが、その日の調子、天気、何を食べたかなどが書いてあった。だいたい毎日つけていたが、初めて精神科に行った日から、パタリと途絶えていた。
やはり、前から認知症があったわけではない、薬のせいだ、と確信した。一方で、母はこのままずーっとこの状態なのだろうか?と不安にもなった。

私がいる間に、いろいろな手続きをする必要があった。介護保険の認定を受けるために、地域包括センターの担当者と保健婦さんに来てもらい、介護保険についての説明を受けたり、契約書にサインしたり。今後のことも考えて行かなくてはならない。私が仙台にいられるのは3日間だけなので、その後どうするか。薬をどうやって飲んでもらうか。考えることはいろいろとあった。地域包括センターのSさんは、若い女性ながら、テキパキと今やるべきことを提案してくれた。
これまで週1回だった、ヘルパーさんの回数を増やすこと、やはり週1で頼んでいたお弁当を週2にすることなど、さらには何らかの施設という話にもなったが、私としては、それはやや早急な気がした。
2人が帰り、ちょっとホッとして家に電話すると、タイミング悪く何人も電話してきた後らしく、プーは「電話ばっかりで、ぜんぜん遊べない!」と憤慨しており、すぐに「バイビー」と電話を切られてしまった。

昔は、仙台までの夜行バスといえば『東北急行バス』しかなかった。今は各社の競争が激しく、格安バスがいろいろ出ている。片道3000円前後で仙台に行けるのだからありがたい。
金曜日だったので、バスは満席だった。2列席で、前後も狭めなので、ウトウトしかできなかったが、朝の5時にはもう仙台に着いていた。仙台の町の夜明けは東京に比べると遅い。お茶を飲む場所も見つからないので、駅前で時間をつぶした後、母のところへ向かった。
母は、私が来ることはちゃんと理解していて、思ったよりは元気だった。私の買ってきたパンを、おいしいおいしいと食べた。昼食も、私が作ったのを、おいしそうに食べていた。とてもお腹が空いていたのだなあと思った。そして、ずーっとしゃべり続けていた。いろんな人が現れたことや、ここ以外に家があることなど、夢の世界の話も多かった。あまり何度も言うので、私は「うちは、ここしかないんだよ」と少し強い語調で言ってしまったが、後から知ったのだがこういうときは否定してはいけないそうだ。
うつ病の時は、私が何度行くと言っても会いたがらなかった母だが、今回は私の来訪を素直に喜んでいるようだった。

仙台に行くまで数日あったが、毎日6時頃電話が鳴って、出ると母が「あんた今どこにいるの?」という調子だった。東京だと答えると、「え〜、どうしてー?」と聞くので、東京で大学に入って、仕事もして、結婚して子供ができて…」と説明すると、「へ〜?そんなこと全然知らなかった。いつそんなことになったのかねえ。」と不思議そうだった。
また他の日は、「温泉みたいなところにいて、神主さんみたいな人が祝詞をあげているの」などと言っていた。いつでも、まわりには私や他の親戚や、見知らぬ人がいるのだということだった。それに、今住んでいるところは、自分の家ではないと思っているようだった。
そんな母だったが、どこか子供と話しているようで、私は「ふーん、そうなの」と相づちをうっていた。心配ではあったが、今はとりあえず電話くらいしかできない。地域包括センターや通っていた精神科の電話番号を何とか聞きだし(電話番号を理解し、伝えるのにも、非常に苦労していた。)、連絡を取り合って、私は週末に夜行バスに乗れることを、密かに楽しみにしていた。

精神科では、薬が合わなかったのだろうということで、もう少し弱い薬に変更となった。今の母には、決められた分量と回数で薬を飲むのは難しいように思えた。
Hさんは、母を連れて帰って来て、食事も十分にとれていない様子だった母に、お寿司を買ってきたり、薬を仕切のついた小箱に分類したりと、いろいろめんどうを見てくれたが、いつまでも頼っているわけにもいかず、仕事が休みになる週末に仙台に行くことにした。
急に「介護」という言葉が身近に感じられた。

1

PR

Calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2006 >>

プラネタリウム

Archive

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM